前回のブログ記事「芸術とは」に書いた内容について質問をいただきました。
とても幸せに感じる時、と、満足できない時、の違いは、「ハートのあらわれ」の時、と、「〜のためにそれをする」 時だった、ということでしょうか?
「〜のため」には、神様のため、とか、どなたか、感謝をあらわしたい人のため、とかでも、満足しないのでしょうか??
この質問をいただいて、10年以上前に読んだ宮沢賢治の言葉を思い出しました。
「みんなむかしからのきょうだいなのだから、けっしてひとりをいのってはいけない。」
生涯独身であった賢治が、もっとも愛した妹のとし子の死を悼んで詠んだ「青森挽歌」の中の一節だったと思います。
これを読んで当時の私は、自分のことだけや、知っている人のことだけ大切に思うのは間違いで、世界のみんなの幸せを祈らなければいけないのだと思いました。
世界が広がった瞬間でした。
初対面の人にも、心から好意を感じることができるようになりました。
しかし一方で、その後は自分のことや限定された人の幸せを祈ることに少し抵抗を感じるようになりました。
「すべて神さまからの贈り物なのだから、良いことも、悪いこともただ受け入れよう、どうか〜してくださいと祈るより、みんなしあわせでありますようにの祈ろう」と思いました。
そして最近、気づきがありました。
会社では、各支社、部署、役割があり、皆それぞれの担当で利益を上げたり、仕事を行うことで、全体的に会社の利益となります。
たとえば、営業一課は、あたえられた営業ノルマを達成することに全力を尽くします。
営業二課の成績を気にして、一課の仕事を犠牲にしたりすることは、優しいことですが、会社の利益にはあまりなりません。
それぞれ与えられた仕事(ダルマ)を実行することが、全体の利益になります。
私たちはみんな兄弟なのだから、世界のすべての生き物の幸せを祈ることができます。
しかし、まず幸せになるべきは自分自身なのではないだろうか
自分が幸せになれば、次は家族の幸せのために祈り、努力することができる
それができれば、次は地域の幸せを祈り、行動することができる
それができれば、次は世界の幸せを祈り、生きることができる
これは、決して下からの順番を守らなければいけないわけではないと思います。
それぞれのレベルの祈りを同時にすることもできるのだと思います
しかし、自分や家族の幸せなしには、世界の幸せもないと思ってしまいました。
とくに家族・・・
家族の幸せなしには、どんな霊性修行も奉仕も基盤が弱くなってしまうということを、実生活で体験してしまいました。
私の家族は私たち家族だけにあたえられた場
他の奉仕活動は他の人に代わってもらうこともできますが、家族と幸せに生きることは、他の誰にもかわることができない、神さまから頂いたかけがえのない役割だと思いました。
いままで犠牲にしていたものの大きさを恐ろしくも思う瞬間がありました。
営業一課はまず一課のノルマを達成し、同時にその他の部署の仕事を手伝うことができる・・・
自分自身の成功、富、結婚、出産、学業達成を祈ることは、決して間違っていないと、思うようになりました。
それが、世界の幸せにつながっているなら。
一課の成績が会社の利益につながっているように。
私の幸せは、人類の幸せにつながっている、それを神さまにささげて喜んでいただく
。
私を幸せにするのは、私だけに与えられた、神さまからのノルマだと思いました。
私の家族を幸せにするのは、私の家族だけに与えられた、神さまからのノルマだと思いました。
はじめの質問にもどると・・・
音楽、踊りをする目的「〜のため」には、今までたくさんの対象がありました。
神さまのため、家族のため、誰かのお祝いのため、自分のためなど。
内なるハートは、歌や踊りを通して外に表現されます。
どんな狭い対象のためでも、最も大きな神さまのためでも、
それが全部つながっているなら、それはみんなの幸せにつながっていると思います。
いつも祈りとともにハートのアートを表現したいと思いました。