体験談〜サイババの大学の教授の話〜1 サイババとは?

bolojaisai2009-10-30

サイラムニュース127-129号で連載された記事を、「体験談〜サイババの大学の教授の話〜」シリーズで紹介したいと思います。この記事は本当に私の人生を大きく変えた言葉でした。SSOJのHPには掲載されていないので、ぜひ多くの方に読んでいただきたいと思いました。サイババの最も近い場所で長年暮らされている有名なインド人の方の体験談です。サイラムニュースには名前入りで掲載されていますが、こちらでは伏せておきます。
サイババとは?」と疑問に思う方に、どれだけ具体的な情報より、大きな印象を残すのではないかと思います。
少しずつアップしていきたいと思います。ぜひ、皆様からの感想などもお待ちしています。
※文中の「スワミ」とは、霊的指導者の意味で、この執筆者にとってはサイババを指します。

私はケーララ州の、本当に、とても信仰の篤(あつ)い家庭に生まれました。両親はもちろんこのスワミに帰依していたわけではありません。両親は私が生まれた時からとても信心深く、私はよく二人が礼拝(プージャー)のための部屋にいるのを見かけたものです。実際、私の父は敬虔な太陽神の崇拝者(スーリヨーパーサカ)でした。

一九六四年に、私たちはスワミの許へと引き寄せられました。これにはとても興味深い出来事が関わっていました。私の父はラーマクリシュナ パラマハムサの信者でした。父はラーマクリシュナ パラマハムサこそ、ラーマ神とクリシュナ神以後の世紀における最高の人物だと感じていました。ラーマクリシュナ パラマハムサこそが最も偉大だと感じていました。父はラーマクリシュナ パラマハムサに関するたくさんの本を読んでいました。私の父は偉大な学者で、「バガヴァッドギーター」の七百もの詩句をすべて完全に習得していました。ラーマクリシュナ パラマハムサは、「シッダ(覚者)やサーダカ(求道者)は奇跡を行うべきではない。それは少なからず霊的成長の妨げとなる」と言っていました。


ですから、父がサティヤ サイ ババのことを耳にした時、ちょっと違うと思ったのです。なぜこの男は奇跡の数々をやって見せるのだろうか? そんなことしても自分のためにはならないだろうに、と。このように、父はスワミに反感を抱いていました。
以前、家の前に寺院があり、毎晩八時になると、父はよく私を連れてそこに出かけていました。ある日、私たちが祈りを捧げていた時のことです。それはずっと昔、一九六四年のことでしたが、私たちが神様の前で祈っていると、私たちの隣人がたまたまやって来てこう言いました。
「今プッタパルティへ行って帰ってきたところなんだ。これはスワミに関する本だ。持って行かないかい?」


考えても見てください。お寺の前で手渡されたのです。寺院の前で何かを差し出された時、断ることなどできないでしょう。父はちょっと嫌そうにしていましたが、それでもその本を受け取りました。父は本を持って帰り、家に置いたまま放っておきました。目を通そうともしませんでした。けれども、私の母は好奇心が強かったので、本を読み、大いに関心を持ちました。母は父に「ちょっとは見てみたら?」と言うようになりましたが、父は「興味がない」の一点張りでした。母やしつこく何度も勧めていました。


そんなある日、父は無造作に本を開くと、ある行(くだり)が父の目を捕えました。ご講話の中でスワミはこうおっしゃっていました。
「ラーマクリシュナ パラマハムサは『シッダやヨーギ(ヨーガ行者)は奇跡を行うべきではない』と言っていますが、これは実に正しい。私はシッダでもなければヨーギでもありません。実のところ、私は源であり、シッダやヨーギに関するそうした法則すべてを創ったのはこの私です」。
スワミは大胆に言い放っていらっしゃいました。それこそが、父がスワミを受け入れられない精神的なつかえとなっていたものでした。父はそれを読んだ後、本のすべてに目を通しました。父は、その本に書かれている人物、その本に書かれていることが、果たして真実なのか知りたくなりました。会いに行くべきだと思いました。その本は『サティヤ サイ スピークス』の何巻かだったのではないかと思います。


そうして父は、長男である私の兄と一緒に、一九六五年にスワミのところに行きました。兄は当時土木工学を専攻していました。ちょうど最後の学期の時でした。何かがあって、兄は鬱(うつ)になり、大学へ行くのを止めていました。そういった状況の時でした。それで二人でスワミのところに行ったのです。スワミは二人をインタビューにお呼びになりました。もちろん、インタビュールームでは、私たちの人生はすべて本を開くように明らかにされます。スワミは兄に、「なぜ学業を止めたのかね?」とお尋ねになりました。兄は泣き出しました。スワミはおっしゃいました。
「だめだ、学校へ行って試験を受けなさい。私が君に学位を与えよう」
おかげで兄は学校へ行き、試験を受けました。土木工学を修めた兄は、グジャラート州の産業界における最上級のエンジニアの一人となり、ある会社を発展させ、最近退職しました。


その時以来、私たち家族はスワミに導かれてきました。実際、私の父は、(単なる)セヴァではなくサティヤ サイ セヴァ団体(サミティ)発足時の主要なメンバーの一人でした。当時、私たちの住まいの裏手にその協会(マンダリ)がありました。私たちは毎週木曜日と日曜日に、スワミのバジャンだけの定例会をやっていました。(つづく)