サンスクリット語学習2 ヴェーディックサンスクリットと普通のサンスクリットは異なる
私がサンスクリット語の勉強に夢中だったころ、サイババのもとでヴェーダを唱えていたある方から聞いたのは、ヴェーダのサンスクリットと、現在勉強することができるサンスクリットは異なるということだった。
自分が覚えたヴェーダのすべての言葉を辞書でひいてその意味を調べていた私は、その言葉を聞いてびっくりしたのと同時に、納得したような感じもあった。
なぜならば、辞書で言葉を引くたびに、その意味のあまりの多さにわけがわからなくなっていたからだ。
いつ、誰によって書かれたと言うことができない経典(?)と聞いて、納得することができる人はどれだけいるのだろうか。
しかし、そうとしかいいようのないその存在を、確かに暗唱している自分がいる。
その言葉は、古きは数千年前の聖者が唱えていたのと同じで、新しきには世界遺産に指定された無形文化遺産である。
考えれば考えるほど、不思議でとらえどころがない。
それは、ただ味わうことができるものだ。
かつて、聖者はその言葉を書いたのではなく、聞いた。
ヴェーダは、その言葉以上の意味を持ち、その音自体が神の具現である。
ヴェーダを理解するには、ヴェーダと同じ場所に立って、聞くことのみによって可能である。
実際に、文法的にもヴェーダのサンスクリットと、普通のサンスクリットで異なる部分がある。
そして、ヴェーダの直訳を読むと、???となることは珍しくない。
しかし、中には訳でも理解しやすく、また唱えやすいものがあるのだ。
そして、サイババはそれらをよく講話で話しておられるように思う。
そんなヴェーダの一つが、sahana vavatu から始まるヴェーダだ。(つづく)